九州あちこち歴史散歩★立花宗茂・立花城の戦い(1)島津軍の九州席巻・北上 サイトマップ
卑弥呼の時代から大陸との交易都市であった博多は、中世には海外貿易の拠点として栄え、その莫大な権益を手に入れるために大内、毛利、大友、龍造寺氏などが争奪戦を繰り広げた。 商人の自治都市であった博多にはを防御する城は博多の東に位置する立花山に建造され、戦国時代には立花山の七つの全ての峰に出城・砦が造られ、敵の攻撃に備えた。 貿易港博多の争奪の戦いはすなわち立花城をめぐる争いである。 (現在、博多の町の中にある福岡城は関が原の戦いの後(1601-)に黒田官兵衛(如水)、長政親子が築城したもので、この時に商人の町博多に武士の町福岡ができた。明治以降には博多と福岡の町名争いが続くことになった。) ここでは立花城をめぐる最後の戦い、「立花城を守る立花宗茂」vs「九州のほとんどの地域、武将を制圧しさらに九州の完全制覇を目指して5万の勢力で北上してきた島津軍」の戦いを紹介します。 立花山の案内地図は 新宮町の「立花山の概要」 に掲載されています。 (立花宗茂の立花城をめぐる島津軍との戦いに至るまでの九州の状況や、直前の岩屋城の戦いについての説明は当ホームページの「「合戦」高橋紹運・岩屋城の戦い」の説明文を使用しています。) |
博多の町の東に位置する立花山は高さ367メートルの低い山であるが、樹木は生い茂り、楠の原生林も存在する深山である。 福岡市東区の香椎浜から眺めた立花山で中央が立花山(井楼岳)(367m)、左に順に松尾岳(337m)、白岳(314m)。 この三つの峰の他に大一足、小一足、大首頭(おおおつぶら)、小首頭の四つの峰があり、この七つの峰の全てに出城・砦が造られていたという。 立花山の西側には国道3号線が通り、西側の香椎周辺には大マンション群が建ち並び、博多は人口150万人の大都市へと発展した。 |
当時の状況(1) 天正6年(1578)11月12日 耳川の戦い 大友 (立花道雪(どうせつ)、高橋紹運(じょううん)の両将は筑前で城を守り、龍造寺勢や秋月勢の来襲に備えていた。) 大友家はそれまで九州の北半分を勢力下に治めていたが、筑前、筑後、肥前などの有力国人(秋月、筑紫、原田氏など)は次々と離反した。 彼らはこの後、次第に力を増してきた「肥前の熊」 天正12年(1584)3月24日 九州の北半分の大半を勢力下に治めていた龍造寺隆信が、島原半島の (龍造寺家は嫡男政家(後見役として母慶ァ尼(けいぎんに))が後を継いだが、事実上はその懇請を受けた鍋島直茂が領国を差配し、立て直しをはかった。) 秋月、筑紫、原田、麻生氏らも島津につき、残るは大友氏だけとなった。 天正13年(1585)10月 秀吉「惣無事令」を発す 豊臣秀吉は夏に四国を平定し、関白となった。10月に全国に「 島津にも「大友との戦争を止め秀吉に従え」との文書が年末に届いたが、島津は従わなかった。 天正14年(1586)4月 宗麟、秀吉に派兵要請 大友宗麟は島津の侵攻に苦しみ(武将の離反が増え始めた)、自ら大坂表に出て、秀吉に見え臣下の礼をとり、豊臣軍の派遣を要請した。 筑前国を秀吉に進上し、また茶器の名品「新田肩衝(にったかたつき)」「筑紫茄子(なす)」、名刀「骨喰(ほねばみ)」などを献上した。(なお前年にも茶壷の名品「志賀」を献上している。) |
北側から眺める立花山。左から立花山、松尾岳、白岳。 もう少し右手に回って眺めると、立花山が松尾岳に隠れ「ふたこぶラクダ」に見える。 |
当時の状況(2) 「新田肩衝」の有為転変 当時、大名の間に茶道が広がり、信長や秀吉は武将に与えることができなくなった領地の代わりに、茶器の名品を与え、茶会を開く権限などと共に、武将の権威の一部とした。城(領地)よりも茶器を欲しがる武将も現れた。 (滝川一益は信長から上野国と信濃国の一部を与えられたが、それよりも茶器の「珠光小茄子(じゅこうこなす)」を望んだのに叶わなかったと嘆いている。) 「新田肩衝」は当時もすでに天下三肩衝として知られており、秀吉が欲しがっていた名品だった。挨拶がわりに献上したといっても、郷土銘菓のせんべいや自家栽培のなすびとは訳が違うのである。 茶器天下三肩衝の流転(暇なときにどうぞ) |
南側の支峰「三日月山(272m)」から眺めた立花山。左に松尾岳、白岳と続く。 三日月山から立花山頂まで尾根伝いに約40分の行程である。 立花山は福岡市周辺の子供たちが最初に登る山と思われる。 |
当時の状況(3) 天正14年(1586)5月 島津氏、秀吉の「九州国分け案」を拒否 秀吉は「九州国分け案」を示した。大友氏側に有利な案だったため島津氏は拒否した。 天正14年(1586)6月 肥後口から北上開始 島津軍は1月にいったん北上を決めた後も秀吉の動きを見ていたが、ついに6月、肥後口と日向口の二方向から北上を開始することを決めた。しかし、島津義久はなおも秀吉の出方が読みきれず、まず肥後口からの侵攻作戦を実行し、豊後(ぶんご)方面は豊後南部衆の離反、内応がさらに拡大するのを待って侵攻することにした。 肥後口から、島津忠長、 筑前・筑後・肥前・肥後・ 日向口からは、島津家久を大将とする 上井覚兼ら一部の部隊は筑後攻めに出陣した。 (豊後攻めは10月に出陣した。) 島津義久は (10月に義弘、歳久、家久も出陣した。) |
立花山案内図(麓の看板) 立花山登山には東側の梅岳寺からのルートが多く使われると思うが、他の麓周辺に住んでいる人は山の西や南からのルートがある。 南の三日月山も麓に公園や大きな駐車場が整備されていて、特に桜の季節は大勢の花見客が集まる。立花山への尾根伝いの道もよく整備されている。 国道3号線沿いのバスを利用する人は、下原バス停からのルートが登り易い。平山バス停からのルートは白岳、松尾岳を経由するので健脚向きである。 東側の梅岳寺周辺には六所宮や伝教大師が建立した独鈷寺があり、3か所の駐車場がある。 立花道雪夫妻はこの梅岳寺に眠っている。 立花宗茂は岩屋城で島津軍と戦って玉砕を遂げた高橋紹運の長男であるが、立花道雪に請われて道雪の娘・ァ千代と結婚して(婿入り)立花家を継ぎ、立花城主として父・道雪や実父・紹運の意志を継いで孤軍となっても島津軍と戦った。 (九州を席巻した島津軍が北上してきたときに島津軍に対峙したのは、筑前では大宰府・岩屋城に籠もる高橋紹運と立花城に籠もる立花宗茂だけであった。他には豊後の弱体化した大友宗麟勢だけで、島津軍は九州完全制覇を目前にしていた。) |
当時の状況(4) 秀吉は前年(1585)3月紀伊の根来寺、雑賀党を攻め滅ぼし、6月四国に8万の大軍を派遣して長宗我部元親(もとちか)を攻め、8月四国平定した。また7月には関白太政大臣の位を得ている。この後いずれ九州にも進攻してくることは予想できた。 しかし秀吉もこの2、3年で畿内周辺を支配下に治めたばかりで、前々年(1584)には徳川家康との「長久手の戦い」で手痛い敗北を喫し、講和がなった後もこの二人は睨み合ったままである。この年(1586)4月に秀吉は妹を家康に嫁がせたが、家康は浜松から動かず、二人の関係はこの先どうなるか全く読めなかった。義久は秀吉が九州に攻めてくるにしても、家康が秀吉の背後を脅かしている限り、まだ1,2年先のことだろうと睨んでいた。 一方、島津側も問題を抱えていた。島津もこの数年で支配地域を拡大し、日向、肥後、肥前などを支配下に置いてきたが、統治がうまくいっていたわけではなかった。本国内においてさえ一枚岩というには程遠く、また支配下のうち特に肥後は統治に問題をかかえていた。このような状況で出兵を強行しても、肥後などで反乱が起これば、島津軍は退路を絶たれて大打撃をこうむるであろう。 しかし、今回の北上作戦が豊臣方の動きより一日でも遅れると、筑前、豊前の敵を一掃し、豊臣軍が九州に上陸する前に海岸線を押さえ、その上陸を阻止するという島津軍の目的は崩れ去るのである。九州に大軍が渡るのを許したら物量戦となり、豊臣軍への太刀打ちは難しくなる。あくまで先手を取って九州への上陸を阻止し、有利な条件で和議に持ち込むのが島津側の算段であった。 秀吉はこの後家康に対して勝負手を連発した。 まず、1986年4月に秀吉の妹の旭姫(姫といってもすでに44歳。家康は45歳)を現在の夫から強引に離縁させ、家康の正室にと申し入れ実現させた。(その夫は抗議のため自害したともいわれる。)家康も正面切って断るだけの力はないので受け入れたが、それでも大坂城に挨拶には出向かなかった。すると秀吉は半年後の9月、今度はなんと母親の大政所(おおまんどころ)を、娘の見舞いと称して浜松城へ送ってきた。実質は人質である。ここまでされて家康は11月遂に大坂城に挨拶に出向き、秀吉と家康の和解がなった。 秀吉はすでに九州に先遣隊を派遣していたが、後顧の憂いがなくなったため、その後すぐ(1586年末)支配下に置いた37か国の武将に命じ25万の大軍を動員して九州に向かうのである。 |
山は低山ではあるが登りやすいおむすび山ではなく、結構体力を必要とする。 (もっとも子供たちは軽々と登って行くが・・) |
いたるところに大木が生い茂っている。 |
当時の状況(5) 天正14年(1586)6月 島津軍が北上を開始した頃、筑前で大友氏の城は太宰府近くの宝満城とその支城の岩屋城、博多を睨む立花城だけであった。 筑前の高橋紹運、立花統虎と豊後の大友氏以外の国人はほとんど島津軍に従った。 この十余年の立花城、宝満・岩屋城周辺のできごとを振り返ってみよう。 永禄10〜12年(1567〜1569) 大友側の有力武将だった宝満城主高橋 毛利勢は毛利 これを2年にわたる戦いで鎮圧した大友氏は、元亀元年(1570)宝満城主に高橋 高橋紹運は当時吉弘弥七郎 (所領は太宰府のある御笠郡を中心に石高約3万石) 立花道雪は当時 大友家の主柱として大友家臣団をまとめてきた勇将である。 立花城に移る前に、雷に打たれ足が不自由になった。戦いにあたっては輿(こし)を若者に担がせ、その上で指揮をとった。 生涯に37度戦って一度も敗れたことがなかったという。 (所領は表 若き紹運にとって道雪は人生の師であり、尊敬できる武将だった。 この後十余年、「道雪あるところ紹運あり」といわれるほどに二人は力を合わせ、筑前、筑後の所領をめぐって、毛利、龍造寺、秋月氏らと争いを重ねてきた。 貿易による権益の大きかった自由都市博多を、大友の筑前五城で取り囲み、大友氏が九州一の武威を誇っていた順調な時もあったが、天正6年(1578)耳川の戦いで大友宗麟が島津軍に大敗した後は、周辺の国人は龍造寺氏や島津氏と結ぶものが多くなった。 (紹運の兄、妻の兄も耳川の戦いで戦死した。 なお、紹運の父吉弘鑑理(あきただ)(大友家三家老の一人)は大友氏の勢力拡大のため戦い続け、前年に病死している。) 天正9年(1581)8月18日 立花道雪はひとり娘のァ千代(ぎんちよ)が7歳の時に立花城の城督に据えていたが、戦乱はさらに激しさを増し、戦場で家中を率いて戦うには胆力・知略のすぐれた後継がどうしても欲しいと考え、高橋紹運の長男・ 紹運は 千熊丸は15歳で元服して 後の立花 (高橋紹運の家は二男の |
新鮮な空気を吸い、いろいろな形をした木や花を眺めるだけで十分楽しめる。 ルートは地元の人たちによってきれいに整備されている。(山開きは例年4月中旬) |
「屏風岩」 山頂まであと300メートル。 「ぜーぜー、はーはー。ここでまた一休みしよう。」 子供たちはどんどん追い抜いて登っていく。 |
当時の状況(6) 天正13年(1585)9月11日、立花道雪出陣中に病没。 道雪、紹運の連合軍は前年から筑後の龍造寺、秋月勢を相手に転戦を重ね、昨年末は 「わが遺体は高良山の麓に、 統虎は「敵地に大殿ひとりを残し、敵の馬蹄に踏みにじられるのはしのびない。立花の城にお連れ申せ」と命じた。 (道雪は現在、立花山の麓に母と並んで眠っている。継母であるが、実の親子以上に仲がよかったという。) 天正13年(1585)9月12日、 道雪が陣没した翌日に、筑紫広門(ひろかど)の兵300人が全員山伏修験者の姿になり、不意を襲って山上の僧坊、城に放火して、占拠した。 (宝満山は山岳宗教が盛んであった。宝満山を金剛界、彦山を胎蔵界とする修験道の霊場で、山上には竈門(かまど)神社上宮、僧坊などがあった。最盛期には宝満山に370坊あったという。しかし戦国時代には衰退していった。) 岩屋城は無事で、宝満城にいた紹運の妻と二男統増(むねます)は屋山城代家老などの留守部隊に救出された。 高橋紹運は柳川の戦場から道雪の遺骸を守り、 岩屋城に立ち寄ったが、翌日には立花城の道雪の葬儀に参加し、焼香を終えると急いで帰城し、筑紫軍に備えた。 尊敬する「"大友家の魂」 道雪にゆっくり別れの挨拶をする間も、残された統虎やァ千代に声をかける間もなかった。 統虎はこの後、ァ千代に替わって立花城督となった。 なお、宝満城はこの後、筑紫広門と高橋紹運の 天正14年(1586)2月、紹運の二男 筑紫広門は島津側と結んでいたが、大友、秀吉側につくのが得策と判断し、大友側と和睦した。 |
「クスノキ原生林」の幹回り15メートルのクスノキ 樹齢300年を超えるクスの原生林があり、樹高30メートルを超えるクスノキが600本ほど生えていて全国的にも珍しく、国の特別天然記念物に指定されている。 このクスノキは幹回り15メートルで最大。ここは生命力あふれるパワースポットである。 立花山全体にクスの木が多く、山はオゾンで満ちている。 |
山頂付近はかなりの急坂になっている。 |
当時の状況(7) 天正14年(1586)4月 宗麟、秀吉に派兵要請 大友宗麟は島津の侵攻に苦しみ(武将の離反が増え始めた)、自ら大阪表に出て秀吉に見え臣下の礼をとり、豊臣軍の派遣を要請した。 筑前国を秀吉に進上し、宝満・岩屋城、立花城の城督は秀吉の 天正14年(1586)6月 島津軍が筑前、筑後を目指して北上を開始した。目的は筑前・筑後の大友軍を一掃し、北部九州を先に制圧することにより豊臣軍の九州上陸を阻み、九州を制覇することであった。 これを迎え撃つ大友軍は岩屋城の高橋紹運の軍勢2千、立花城の長男立花統虎の軍勢3千弱の、合わせてもわずか5千弱だけである。 大友の本国豊後では有力武将の離反が続き、島津の日向口軍勢が侵入の機をうかがってうかがっており、大友家存亡の危機で援軍派遣どころではなかった。 宝満城は筑紫広門との相城となっており、広門は大友側に寝返ってきたが、あまり信用できなかった。 この時、紹運39歳、長男統虎20歳、二男統増15歳。兵力5千弱。 対する島津軍勢5万余。 高橋紹運はいかに戦うのであろうか。 |
立花山山頂(立花城本丸跡) 頂上にたどり着いた。麓からゆっくり登って約1時間の行程。 博多の町や博多湾、玄界灘が一望でき眺望がすばらしい。 |
山頂は城を建てる平坦なスペースになっている。 |
当時の状況(8) 天正14年(1586)6月下旬 島津軍が肥後口から北上を開始した。 島津忠長、 筑前・筑後・肥前・肥後・ (島津軍に加わった国人)(国人=国衆。地方の豪族) 肥後国衆・・・宇土、詫間、赤星、 筑後国衆・・・三池、 肥前国衆・・・龍造寺、鍋島、有馬、神代、松浦、波多氏等 筑前国衆・・・ 豊前国衆・・・ 筑前で大友家の城は太宰府近くの宝満城とその支城の岩屋城、博多をにらむ立花城だけであった。 兵力: 宝満・岩屋城 約2千。立花城3千弱。合計5千弱。 (この時、紹運(じょううん)39歳、長男統虎(むねとら)20歳、二男統増(むねます)15歳。) 対する島津軍勢5万余。 天正14年(1586)7月6日 島津軍、筑紫広門を攻める 筑前久留米の高良山を本陣とした島津軍は2万の軍勢で、大友側に寝返った筑紫広門を攻めた。 広門軍は鳥栖にある本城の勝尾城とその支城に約3千人の兵が籠って激しく戦った。支城を落とされた後、勝尾城は水の手を切られたため籠城ができず、開城して戦ったが7月10日に落城。広門は秋月種実のとりなしで降伏、捕らわれの身となった。 |
立花城は中世には貿易港博多を睨む城として戦略上重要な拠点となり、有力大名が争奪を繰り返した。 |
北側には玄界灘、西側には博多の町が一望できる。 |
当時の状況(9) 天正14年(1586)7月8日 立花城から使者 立花統虎から、岩屋城を動かない父紹運に 「岩屋城で島津の大軍と戦うのは不利です。宝満城、立花城は要害の地なので、どちらかにお移りください」と諌めてきた。 部下もみな同じ意見で、屋山城代は 「殿は早く立花城にお移りください。この城は私が城代として預かってきましたので、私が守ります。叶わぬときは城を枕に討死にするまで」と申し出た。 高橋紹運は答えた。 「要害であっても、人の和がなければ長くは保てない。 運が尽きなければこの城でも敵を防ぐことができるし、運が尽きるならどんな名城に籠ろうと滅ぶだろう。逃げることができないのなら、多年の居城であるこの城を枕に死ぬのが本望だ。 立花城は要害であるが、一大事の時に大将が一か所に立て籠もるのは良策ではない。 たとえあの島津の大軍が押し寄せても、紹運命を限りに戦えば14,5日は城を支え、寄せ手の3千人ばかりは討ち取れる。そうすれば敵もそう強くは出れないだろう。 立花城は名城である。ここでさらに20日間を持ちこたえれば、中国から援軍が駆けつけ、統虎の運も開けるであろう」 そして立花城に宛てて書状を託した。 「諫言はありがたいが、私は岩屋城に籠城する。 こちらのことはともかく、統虎は立花城を己の屍をさらしてでも守れ。そして援軍を待て。 行き来できるのも今日、明日までだ。もう二度と会うこともないだろう」 この遺書を読んで、立花城の武将はみな泣いた。 そして岩屋城へ援軍を出すことになり、志願する者の中から3、40人が選ばれた。 (統虎はこれまでも討死にを覚悟している紹運のもとに援軍を派遣したかったのだが、他家に入ってきた身でもあり、なかなか言い出せなかった。後年、あの時皆が志願してくれたときは本当にうれしかったと述懐している。) 紹運は駆けつけた援兵に、「岩屋城は我々で守る。皆は立花城を守って欲しい」と頼んだ。が、援兵は聞き入れてもらえなければ切腹する、と答えて動かず、最後に紹運もこれを快く受け入れた。 高橋紹運の迎撃体制(1) 紹運は岩屋城にいた女子供、病人などを宝満城に移し、統増に守らせた。 紹運の妻ちよは最後まで岩屋城に残って紹運とともに戦うと言い張ったが、「統増を頼む」との言葉に抗えず、「これまでのご恩は忘れません。」と言って宝満城に移っていった。(妻ちよをはじめ、婦女子数十人が岩屋城に残っていたとの説もある。) |
中段に左右に伸びるのは「海の中道」でその上方の「志賀島」と砂州でつながっている。 海の中道の上方の海が玄界灘、下方が博多湾。手前の橋でつながっているのが埋立地。 写真の左側に博多の町が広がる。 |
立花山山頂から南側を眺めると、北上してきた島津軍に対峙して立花宗茂の実父・高橋紹運が守っていた岩屋城、弟・統増(むねます)が守っていた宝満城跡周辺が見える。 |
当時の状況(10) 高橋紹運の迎撃体制(2) 岩屋城に留まり援軍が来るまで死守する決意の紹運と、彼と生死を共にせんと城に残った計763人の兵を、次の各砦に配置した。 (守備) (守将) (配員) 南西の城戸 屋山中務少輔 一百余名 百貫島砦 三原紹心 一百余名 虚空蔵台 福田民部少輔 五十余名 南大手門 伊藤総右衛門 七十余名 二条の砦 萩尾麟可 五十名 山城戸 弓削了意 七十余名 風呂屋谷 土岐大隈守 人数不明(二十余名か) 東松本砦 伊藤八郎 人数不明(二十余名か) 秋月押え 高橋越前守 五十余名 水の手上 村上刑部 二十数名 (別書では六十八名) 本丸(高橋勢) 高橋紹運 一百五十名 〃 (立花勢) 吉田右京 三十九名 合計 七百六十三名 (西津弘美氏「戦国挽歌高橋紹運」より引用。) これまで増強してきた砦に鉄砲、武器を十分配備し、土塁、堀切を仕上げ、各所に大木、大石などを積み上げ、楠正成にも負けないような陣地を築いた。 7月9日 秀吉へ救援要請 高橋紹運、立花統虎は島津軍の襲来を急使で黒田如水を通して秀吉へ報告し、救援を要請した。 (秀吉からの「毛利、小早川、吉川に命じて軍勢を派遣した。また黒田、宮木を九州に下したので相談せよ。油断なく忠節に励め。」との返事は間に合わなかった。) 黒田如水は秀吉から九州遠征の軍監に命じられ、状況把握・派兵準備を始めていた。(如水は九州にはまだ来ていないが、部下は既に九州で活動を開始していたと思われる。) なお、同じく軍監を命じられた仙石秀久はこの時すでに豊後に入っていたようである。(肩書は軍監ではなかったともいわれる。) 7月12日 島津軍太宰府に進軍、岩屋城を包囲。 広門を降した島津軍は、12日天拝山上で宝満・岩屋城を眺め軍議を開き、城の麓を取り囲んで二日市、太宰府などに陣を敷いた。般若寺を本陣、観世音寺を前線基地とした。 7月13日 黒田如水から使者 13日黒田如水からの使者が包囲をかいくぐってたどり着き、「立花城へ移りそこで籠城して、関白の軍勢が来るのを待たれよ」と伝えてきたが、紹運は「ここに至って敵に後ろを見せて退くことはできない。戦ってこの城を枕に討死にします。」と答えた。 7月13日(?) 島津軍より降伏勧告の使者 戦いを前にして、できれば戦闘を避け、早く関門一帯を抑えたい島津軍は、紹運のもとに使者を遣わしてきた。 (使者として地元二日市にある荘厳寺の快心和尚が派遣されたといわれる。) 使者「島津軍は、叛いた筑紫広門を討つために出陣してきた。宝満城は広門が占領した城であり、統増殿が籠る理由はない。宝満城を渡されるなら、和議を結んで引き上げよう。あくまで拒否するなら攻め落とす。城兵のこともよく考えられよ。」 紹運「宝満、岩屋、立花の三城は我ら親子が主家の大友家より預って守っているもの。主家も我らも関白公の家人(けにん)となったので、関白公の命令がなければ渡せない。強いて受け取ると申されるなら、帰って速やかに攻められよ。我々は命の限り戦うので、いささか手強いと覚悟されよ。」 |
山頂付近には2か所に石垣跡が残っている。 他の石垣は後の福岡城築城のために全て取り壊され、再利用された。 |
松尾岳に近い方に残る石垣。 |
当時の状況(11) 7月14日 島津軍総攻撃開始 紹運を調略できないと悟った島津軍は14日から総攻撃を開始した。 午前中に城下の家々を焼き払い、数万の兵が麓に押し寄せた。午後に法螺貝の音とともに総攻撃が開始された。 「終日終夜、鉄砲の音やむ時なく、士卒のおめき叫ぶこえ、大地もひびくばかりなり。(島津軍の)火矢を射ることすきまなければ、城中の家とも大略焼けにけり。・・・。城中には上下みなここを死に場所と定めたれば、攻め口を一足も退きさがらず、命を限りに防ぎ戦う。(紹運軍には)ことに鉄砲の上手多かりければ、寄せ手は楯に逃れ、竹杷(弾丸よけの竹束)をつける者共打ち殺さる事夥(おびただ)し」(「筑前国続風土記」より) 島津軍の兵が次から次に押し寄せ、岩屋城の兵は持ち場を一歩も退かずに戦った様子がわかる。この日は夜12時まで総攻撃が続いた。 紹運軍は日頃の訓練どおり、近づく敵には鉄砲、矢、投石で応戦し、各所には大木、大石を積み上げて敵兵めがけて落とし、侵入を防いだ。鉄砲、弾丸は十分備蓄されていた。 翌日(7月15日)も一日中(朝10時から夜12時まで)猛攻撃が行われた。その後も攻撃が続けられたが、砦を一つも破ることができず、島津軍の死傷者は増えるばかりであった。 |
東側の麓にある梅岳寺に大友家を守って一生戦い抜いた立花道雪が眠っている。 |
梅岳寺では4月末には美しい藤の花が迎えてくれる。 |
当時の状況(12) 7月27日午後5時頃 紹運ら全員自害 敵は紹運の守る本丸に押し寄せてきた。紹運も大薙刀を取って戦った。猛烈な白兵戦である。敵は討っても討っても押し寄せてきた。本丸の味方も斃れる者が次第に増えてきた。どれだけ戦ったであろうか。敵の攻撃もいま止まっている。 「やるだけやった。信義も貫いた。」 紹運は残っている数十人の兵を本丸に集めた。全員満身創痍であった。紹運はみんなに礼をいい、櫓に登って自害した。残った者も全員それに続いた。紹運39歳。 また一説には、紹運の妻ら婦女数十人は岩屋城にいて、紹運自決の折には妻を介錯する者3人も決められていたが、妻の籠る曲輪に行き着く前に群がる敵に討たれたという。妻(立花統虎と統増の母)は島津軍に捕らえられた。 763名の将兵が5万人の兵を相手に14日間戦い抜き、全員壮烈な最期をとげた。 一方、島津軍の受けた損傷も大きかった。一説に死者三千人、負傷者も数千人という。 また関門海峡への出動も大きく遅れてしまった。急がないと九州制覇の野望が崩れてしまう。 しかし、軍勢のこの損傷では島津軍もすぐには動けなかった。 |
立花道雪が厚く信奉した「六所宮」 ここにも数台の車が駐車できる。 (道路の右側と手前の山側に駐車場が造られている。) |
伝教大師が唐から帰国後、この地に寄って建立した「独鈷寺」入口 中の庭園にも花がいっぱい咲いていた。 |
当時の状況(13) 7月28日 島津軍宝満城を攻撃 28日の早朝より島津軍は宝満城攻撃を開始した。3万余の兵が二手に分かれて城に近づきつつあった。 宝満城は岩屋城より十倍も堅固である。ここは15歳の統増が守っていた。 しかし戦える将兵は筑紫、高橋勢併せても数百人で、ほかに避難してきた多くの婦女子を抱えていた。 城内では筑紫広門が捕らえられた後島津側の工作が続いていた。筑紫の一部の兵が統増を人質に取って島津側と通じようとするのを、寸前に紹運側の兵が阻止するという不穏な動きがあった。 岩屋城落城の後、あくまで戦うべしとの意見もあったが、ここは忍んで高橋家の存続をはかり、統増公の前途を見守ろうとの意見に落ち着いた。 やって来た島津軍の使者に対し「統増公を立花城に帰城させてもらえるなら、和議を結び、城を明け渡す。それができない時はこの城に拠って戦う。」と伝え、島津側もこれを受入れ、誓紙を交わした。 しかし、一同が下山すると約束は破られ、統増夫婦は捕らえられ、城は焼かれた。統増夫婦はその後薩摩に連行された こうして岩屋城、宝満城は落城した。 しかし、戦いはまだ続く。 紹運に後を託された立花城の統虎(宗茂)が、島津軍との戦いを引き継ぐのである。 島津軍が勝って関門の海、港を封鎖し、九州を制覇できるのか。 秀吉の命じた毛利、小早川、吉川の中国勢の援軍が先に海を渡り、立花城に駆けつけるのか。 立花城でも、包囲した島津軍と城を守る立花勢の間で、命をかけたつばぜり合いが展開する。 勝負はこれからである。 親から子に引き継がれた戦いは、統虎(宗茂)が籠もる立花城の攻防に舞台を移す。 |
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(参考文献=私がたまたま出合い参考にした本です) 「立花城興亡史」吉永正春著、西日本新聞社 「筑前戦国史」吉永正春著、葦書房 「九州戦国合戦記」吉永正春著、海鳥社 「筑前戦国争乱」吉永正春著、海鳥社 「炎の軍扇立花道雪」西津弘美著、叢文社 「戦国挽歌高橋紹運」西津弘美著、叢文社 「立花宗茂 士魂の系譜」西津弘美著、叢文社 「小説立花宗茂(上、下)」童門冬二、学陽書房 「立花宗茂と立花道雪」滝口康彦、人物文庫 「島津義久」桐野作人著、PHP文庫 「柳川の殿さんと呼ばれて・・」立花和雄 「太宰府発見(歴史と万葉の旅)」森弘子著、海鳥社 「戦国九州三国志」歴史群像シリーズ、学研 |
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