九州あちこち歴史散歩★高橋紹運・岩屋城の戦い(4)岩屋城、壮絶!全員玉砕        サイトマップ

高橋紹運・岩屋城の戦い(4)岩屋城、壮絶!全員玉砕

   紹運軍の守りは堅かった。負傷して二の丸に運ばれてくる者も増えてきたが、多くの兵は傷ついてもなお鉄砲や刀を取り、持ち場から一歩も退かず戦った。島津軍は十日ほど経っても砦を一つも落せないばかりか、死傷者が増える一方であった。

 しかし、26日早朝ついに外側の砦が破られた。島津の兵がどっとなだれ込んで次の砦にとりついた時、またもや大木、大石が頭上から降ってきて死傷者が続出した。

天正14年(1586)7月26日 島津軍使の降伏勧告
 これ以上の損傷を避けたい島津軍は、攻撃をいったん中断し、武将の新納(にいろ)蔵人(くらんど)が説得に単身で乗り込んで来て言った。
 「長年にわたる紹運殿の忠義のお働きは敵ながらまことにお見事です。しかし、主家の大友父子は愚かな主人で、多くの家臣が次々と叛き、今や本領の豊後一国さえ思うにまかせぬ有様です。「智者は仁なき者のために死せず」といいます。島津家は信義をもって人に接し、一日も早く九州の民生を安定させようとしています。これまでのあなたの勇戦で武門の意地も十分たちましょう。城中の方々の命と本領安堵はまちがいなく取り計らいますので、速やかに降参されて、城を明け渡されてはいかがですか。」

 紹運は答えた。
 「生ける者は必ず滅し、盛んなる者は必ず滅びます。名家、大家ことごとく滅ぶなかで、大友家は源頼朝公より豊前、豊後を賜って以来、時に負けることはあっても家は断絶していません。島津殿は十年前はまわりの豪族に攻められ、一国はおろか一郡さえ治めかねていました。それが最近ちょっと世に出たからといって、大友家が武威衰えたりなどと広言を吐くのは、「鳥なき里の蝙蝠(こうもり)」というものです。近日豊臣公が九州に進発されたら、島津家の破滅もあり得ます。主家が盛んなる時忠を励む者は多いが、主家が衰えた時に一命を捨てる者は稀です。あなたも島津が滅亡しそうな時には主家を捨てて逃げられるおつもりか。士たるものが仁義を守らなければ鳥獣に異なりません」(「西国盛衰記」より)。

 早く決着をつけたい島津軍は、夕方に再び荘厳寺の快心和尚を遣わして有利な条件を提示してきた。
 「あなたの働きは比類ないものです。双方とも精一杯戦ったのでここで和議を結びましょう。あなたがた三城の所領は保障します。実子一人を人質に出して戴けたら、島津軍は陣を退きます。後の事はまた相談しましょう。敢てあなたの慈悲心に訴えます。これ以上双方に死傷者が出ないようにお願いします」

 紹運は答えた。
 「子供達に和睦しようと計って反対されたら、私は面目を失います(子供達も和睦には反対するでしょう)。人の運命は極まるときが来ます。それを恐れて降伏することは勇士の恥じるところです。豊臣公の援軍も間に合うかどうかわかりません。大友家も武威を失っていますので、もとより当城への後詰(ごづめ)は思いもよりません。あなた方はどうぞ城を攻めてください。我々は戦って潔く討死にします」(「筑前国続風土記」より)

 紹運は島津側の和議交渉を利用したゆさぶり作戦にも全く動じることなく、堂々と反論した。



   宮崎城主上井覚兼(かくけん)は豊後攻めのため待機していたが、筑前への参陣を命じられ22日に着陣した。
 27日の総攻撃には、日向衆は一番の難所の崖に配置された。頭上から大石が降り注ぎ、鉄砲に狙われ動けなくなり、次々と石打にあって崖下に転落する者、頭を砕かれて即死する者、銃弾を受けて死傷する者などが続出した。生き残りの日向衆はほとんど傷を負い、隊長の覚兼も石に打たれて動けなくなり、かわって指揮をとろうとした武将山田有信も石に頭を直撃された。部隊は壊滅状態となって前線から退いた。

 島津軍は配下に入った国人の兵が多く、弱かったとの説があるが、それは当っていないと思う。
 島津忠長、伊集院忠棟、山田有信らは沖田畷の戦いで龍造寺隆信を破ったときの中心部隊である。
 しかも、筑紫弘門を攻めた時は、地理に明るい配下の国人が中心となったが、岩屋城の戦いは島津軍が中心になって攻めたといわれる。弱い軍勢であるはずがない。


   岩屋城の戦いで「チェスト!」の声が山にこだましたか?
 「チェスト!」は示現(じげん)流の掛け声とされる。(「きぇー」「ひぇー」などの絶叫(猿叫)を「チェスト!」と表現しているだけで、実際に「チェスト!」と発声するわけではない。)
 示現流の開祖東郷重位(ちゅうい)は、岩屋城の戦いの翌年に藩主島津義久のお供をして京に上り、善吉和尚と出会って、天真正自顕(じげん)流の教えを受けている。天正16年(1588)6月に自顕流の免許皆伝を受けた。さらに郷里に帰って数年間研鑽に努めた後、小さな道場を開いた。
 藩の剣術師範となるのは慶長9年(1604)(1597とも)で、名も示現流と改めた。このあと島津藩内では示現流が中心となっていく。(藩外不出の御留流となった)。
 従って岩屋城の戦いでは、「チェスト!」の絶叫の掛け声はまだ聞かれなかった。
 もっとも、この当時の島津藩では、人吉藩の丸目蔵人佐(くらんどのすけ)の創始したタイ捨(しゃ)流が主流で、こちらの掛け声も大きい(絶叫ほどではないが)ので、掛け声は山にこだましたであろう。
 関ケ原の戦いでは、東郷重位はすでに数年前に道場を開いていたので、何人かの門人が奇声を発しながら、島津義弘の敵中突破に参陣していたと思われる。


  7月27日 島津軍最後の総攻撃
 27日の早朝(4時とも6時とも)から島津軍の総攻撃が始まった。
 2週間に及ぶ戦いで疲労困憊の紹運軍は、最後の力を振り絞って戦ったが、砦がすでにあちこち破られ、守っていた将兵の大部分が斃れていた。しかし城門はまだどこも破られていなかった。島津軍は次から次へと新手を繰り出し、午後1時頃虚空蔵台が破られた。次の城門でもまた激しい抵抗が繰り広げられた。島津軍はおびただしい死骸を乗り越え、残った城門に群がった。


   屋山城代は南西の城戸を守っていたが27日午後2時頃討死にした。屋山の嫡男太郎は父が討死にしたのを聞くと、刀を振り回して敵陣に突入しようとした。まわりの者(母ともいわれる)が止めようとして袖を引き止めたが、それを振り切って敵陣に切り込んでいき、ついに討たれてしまった。13歳。屋山家にはその時破れた袖が伝わっていたという。


  7月27日午後5時頃 紹運ら全員自害 
 敵は紹運の守る本丸に押し寄せてきた。紹運も大薙刀を取って戦った。猛烈な白兵戦である。敵は討っても討っても押し寄せてきた。本丸の味方も斃れる者が次第に増えてきた。どれだけ戦ったであろうか。敵の攻撃もいま止まっている。
 「やるだけやった。信義も貫いた。」 
 紹運は残っている数十人の兵を本丸に集めた。全員満身創痍であった。紹運はみんなに礼をいい、櫓に登って自害した。残った者も全員それに続いた。紹運39歳。

 また一説には、紹運の妻ら婦女数十人は岩屋城にいて、紹運自決の折には妻を介錯する者3人も決められていたが、妻の籠る曲輪に行き着く前に群がる敵に討たれたという。妻(立花統虎と統増の母)は島津軍に捕らえられた。

 763名の将兵が5万人の兵を相手に14日間戦い抜き、全員壮烈な最期をとげた。
 一方、島津軍の受けた損傷も大きかった。一説に死者三千人、負傷者も数千人という。
 また関門海峡への出動も大きく遅れてしまった。急がないと九州制覇の野望が崩れてしまう。
 しかし、軍勢のこの損傷では島津軍もすぐには動けなかった。

  紹運の辞世の歌
「かばねをば岩屋の苔(こけ)に埋(うず)めてぞ 雲井の空に名をとどむべき」(「紹運記」)
また
「流れての末の世遠く埋もれぬ 名をや岩屋の苔の下水(したみず)」(「陰徳太平記」)
  (この辞世の歌は水の手上砦の近くに建てられている。下に写真掲載)


  7月28日 島津軍宝満城を攻撃
 28日の早朝より島津軍は宝満城攻撃を開始した。3万余の兵が二手に分かれて城に近づきつつあった。

 宝満城は岩屋城より十倍も堅固である。ここは15歳の統増が守っていた。
 しかし戦える将兵は筑紫、高橋勢併せても数百人で、ほかに避難してきた多くの婦女子を抱えていた。
 城内では筑紫広門が捕らえられた後島津側の工作が続いていた。筑紫の一部の兵が統増を人質に取って島津側と通じようとするのを、寸前に紹運側の兵が阻止するという不穏な動きがあった。
 岩屋城落城の後、あくまで戦うべしとの意見もあったが、ここは忍んで高橋家の存続をはかり、統増公の前途を見守ろうとの意見に落ち着いた。
 やって来た島津軍の使者に対し「統増公を立花城に帰城させてもらえるなら、和議を結び、城を明け渡す。それができない時はこの城に拠って戦う。」と伝え、島津側もこれを受入れ、誓紙を交わした。
 しかし、一同が下山すると約束は破られ、統増夫婦は捕らえられ、城は焼かれた。統増夫婦はその後薩摩に連行された

 こうして岩屋城、宝満城は落城した。

 しかし、戦いはまだ続く。
 紹運に後を託された立花城の統虎が、島津軍との戦いを引き継ぐのである。
 島津軍が勝って関門の海、港を封鎖し、九州を制覇できるのか。
 秀吉の命じた毛利、小早川、吉川の中国勢の援軍が先に海を渡り、立花城に駆けつけるのか。
 立花城でも、包囲した島津軍と城を守る立花勢の間で、命をかけたつばぜり合いが展開する。
 勝負はこれからである。
 親から子に引き継がれた戦いは、立花城の攻防に引き継がれる。


林道から二の丸への降り口

   「カーブ22」の近くの林道で、ここから二の丸に降りていく。
 道路の右側には本丸への入口がある。


二の丸跡の平地

   数分で二の丸跡に着く。このあたりは結構広い平地がある。日常の政務はここで行われたのであろう。
 前方に紹運公の墓が見える。

 この山道は太宰府政庁跡や観世音寺方面から、岩屋城跡や大野城跡へ通じる九州自然歩道になっている。春や秋には最高のハイキング道である。
 (時々「猪に注意」の掲示が出ている時がある。命日には猪も紹運公の墓参りに来るのだろうか。)




高橋紹運公の墓

  高橋紹運公の墓。
 いつもきれいに掃除してある。
 (なお、紹運の首は般若坂の高台で首実検が行われた後、「敵ながら惜しむべき名将である」と手厚く葬られた。首塚は般若寺跡の近くにある。(吉永正春氏調査による))


岩屋城で戦った戦没者の碑

   岩屋城で戦った戦没者の慰霊碑。
 戦って壮烈な最期をとげた将兵763人。
 信義のために命をなげうった。

   岩屋城で 討死した将兵の子孫に大石進がいる。
 江戸時代後期、江戸には男谷精一郎、島田虎之助、千葉周作、桃井春蔵、白井亨、斉藤弥四郎、高柳又四郎、榊原健吉などキラ星の如く剣豪が居並んだ。
 その江戸に、身の丈7尺(210cm)の大石進が5尺3寸(160cm)の長竹刀(通常3尺8寸(115cm))を引っさげて登場し、向かうところ敵なしだったという。
 「進が長竹刀を引っさげて江戸に現れた時の旗本の驚きといったらなかった。ご一新(明治維新のこと)以上の騒ぎだった。」と勝海舟がいっている。山岡鉄舟も彼に触れている。
 後に大石神影流を開いた。 柳川藩の生んだ最強の剣豪である。

   なお、同時代に活躍した島田虎之助は豊前中津藩の生んだ剣豪で、大石道場で指導を受けたことがある(島田が17歳年下)。
 江戸の男谷精一郎、柳川の大石進、中津の島田虎之助が「幕末の三剣士」といわれる。
 勝海舟は島田の門下生である。
 虎之助は直心影流島田派を名乗った。博多の仙崖和尚にも教えを乞い、禅にも通じていた。「剣は心なり。心正しからざれば、剣また正しからず」
 天稟の才能の持ち主であったが、惜しくも39歳で病没した。
 (「大菩薩峠」で机龍之介と対決する剣客のモデルとされている。氷川きよしの「一剣」で歌われる剣客のモデルにもなっている。)


二の丸跡の林

   二の丸跡には立ち木が茂り、静かな雰囲気である。
 二の丸から本丸へ通じる小道。

   わずかの将兵で大部隊を相手に戦い、相手を釘付けにした武将に真田昌幸、幸村がいる。
 (第二次上田合戦(1600))
 真田親子は信州上田城を舞台にわずか2,500人の兵で、中山道を関ケ原に向かう4万8千の徳川秀忠軍を、6日間釘付けにした。このため秀忠軍は、天下分け目の戦いに遅参するという決定的な失態を演じた。
 関ケ原で東軍が勝利したため、親子は紀州九度山に蟄居となったが、死ぬまで徳川方に降ることはなかった。(長男の信之は最初から徳川方として戦った。)
 昌幸は九度山で亡くなり、幸村は大坂の陣において大坂城に参陣し、徳川家康をあわやというところまで追い詰めたが、天は味方せず玉砕した。(天下三肩衝の流転(2)「新田肩衝と大坂の陣」に関連した内容があります。)


水の手上砦部隊の慰霊碑

   四王子山にある水の手上砦部隊の慰霊碑。
 水の手砦を守っていた村上刑部他二十数名(68名とも)の部隊も、全員が討死にした。

 この慰霊碑は林道の岩屋城入口から車でさらに5分程走ったところにある。
 道路右側に数台停められる駐車場があり、近くには大野城土塁や焼米が原、太宰府口城門などの遺跡がある。


紹運公の辞世の歌

   慰霊碑の裏には紹運公の辞世の歌が刻まれている。
 「流れての末の世遠く埋(うず)もれぬ 名をや岩屋の苔の下水(したみず)

岩屋城から望む太宰府政庁跡    
 岩屋城本丸跡からは南側麓に太宰府政庁跡の広場が見える。
 このあたり一帯を5万の兵が埋めた。

(なお西側には7世紀に造られた水城跡が眺められる。)


  南側には太宰府の町並みが広がる。
麓には「観世音寺」「戒壇院」など、千年以上の歴史を持つ文化的遺産がある。
 それぞれの季節の緑、花、紅葉などを見るだけでも楽しい。

  南側に広がる太宰府の町


東側に見える太宰府天満宮、九州国立博物館

   東側には太宰府天満宮、九州国立博物館がある。
 太宰府天満宮は梅が有名であるが、新緑の頃も気持ちがいい。
 花や緑を楽しむのもいいし、梅が枝餅を食べながら町を散策するのもいい。太宰府は古代からの歴史が積もっている町である。
 九州国立博物館は時間が許すかぎり何時間でも楽しめる。こちらは九州だけでなく、日本、世界、地球の歴史に触れることができる。


   
 
(参考文献=私がたまたま出合い参考にした本です)
「筑前戦国史」吉永正春著、葦書房
「九州戦国の武将たち」吉永正春著、海鳥社
「九州戦国合戦記」吉永正春著、海鳥社
「戦国挽歌高橋紹運」西津弘美著、叢文社
「炎の軍扇立花道雪」西津弘美著、叢文社
「宝満山歴史散歩」森弘子著、葦書房
「福岡古城探訪」廣崎篤夫著、海鳥社
「立花宗茂」八尋舜右、PHP文庫
「島津義久」桐野作人著、PHP文庫
「立花宗茂と立花道雪」滝口康彦、人物文庫
   

      ◆前ページ  ◆ページ  ◆トップページに戻る
      ◆このページの先頭に戻る