九州あちこち歴史散歩★高橋紹運・岩屋城の戦い(3)島津軍5万、岩屋城を包囲       サイトマップ

高橋紹運・岩屋城の戦い(3)島津軍5万、岩屋城を包囲

  天正14年(1586)6月下旬
 島津軍が肥後口から北上を開始した。
 島津忠長、伊集院忠棟(ただむね)、野村忠敦(ただあつ)らが率いる薩摩・大隈の2万の軍勢が筑後、筑前をめざして出発し、途中降将を加えながら6月下旬に筑後・久留米の高良山に本陣を置いた。
 筑前・筑後・肥前・肥後・豊前の配下諸軍を加え、総勢5万余の軍勢となった。
   (島津軍に加わった国人)(国人=国衆。地方の豪族)
      肥後国衆・・・宇土、詫間、赤星、(じょう)、有働(うどう)、合志、山鹿、隈部氏等
      筑後国衆・・・三池、蒲池(かまち)、黒木、門註所、草野、星野氏等
      肥前国衆・・・龍造寺、鍋島、有馬、神代、松浦、波多氏等
      筑前国衆・・・秋月、原田、千手(せんじゅ)氏等
      豊前国衆・・・城井(きい)、長野、高橋元種氏等

 筑前で大友家の城は太宰府近くの宝満城とその支城の岩屋城、博多をにらむ立花城だけであった。
  兵力: 宝満・岩屋城 約2千。立花城3千弱。合計5千弱。
  (この時、紹運(じょううん)39歳、長男統虎(むねとら)20歳、二男統増(むねます)15歳。)

 対する島津軍勢5万余。

天正14年(1586)7月6日 島津軍、筑紫広門を攻める
 筑前久留米の高良山を本陣とした島津軍は2万の軍勢で、大友側に寝返った筑紫広門を攻めた。
 広門軍は鳥栖にある本城の勝尾城とその支城に約3千人の兵が籠って激しく戦った。支城を落とされた後、勝尾城は水の手を切られたため籠城ができず、開城して戦ったが7月10日に落城。広門は秋月種実のとりなしで降伏、捕らわれの身となった。




   少弐氏の一族である筑紫広門はこれまで大友、毛利、龍造寺、島津、そしてまた大友側に戻るなど変節を繰り返し、武将としての節操がないといわれて当時からあまり人気がない。しかしこれも一族を率いて生き延びるための中小国人の悲哀である。広門の父は彼が12歳のときに、敵に攻められ自害している。
  降伏した時に詠んだ歌
    「忍ぶればいつか世に出ん折やある 奥まで照らせ山の端の月」

 戦国の争いに消え去った国人が多い中で、広門はこの歌のとおりその後も機をつかんで生き残り、秀吉から筑後に1万8千石を得ている。彼なりの生き方を徹底して、一族と共に戦乱を生き延びたということはいえるだろう。
 (関ケ原の戦いでは豊臣方として、立花統虎と大津城攻めに参加。二人とも領土を没収され、1,2年間は加藤清正の世話になった。広門は後に細川忠興の家臣となった。統虎は浪人となって、少数の側近と共に京、江戸へ流浪の旅に出た。)


   その広門の弟(子ともいわれる)の新介晴門は勇将として名を馳せていた。この戦いで、晴門は鷹取城を守っていたが、島津側の勇将川上左京亮(すけ)忠堅(ただかた)と壮烈な一騎打ちを演じ、相打ちとなって双方死亡した。 名を名乗りあってからの一騎打ちは、鉄砲が中心となりつつあったこの時代では珍しいことであった。筑紫晴門18歳。


   島津の武将、川上左京亮忠堅は沖田畷(なわて)の戦いで敵の総大将龍造寺隆信を討ち取った武将で、島津四天王と称せられた勇将であった。
 (戦国時代の戦いの中で総大将が討ち取られたのは、龍造寺隆信と今川義元の二人だけということからも、この殊勲の大きさがわかる。この後、龍造寺氏の勢力は急速に衰えた。)
 沖田畷(島原)の戦いは龍造寺軍3万余に対し、有馬軍3千、援軍島津家久勢3千。家久は海路で八代から島原へ渡ったが、船をすべて帰し背水の陣を敷いた。
 乱戦の中で、川上忠堅が敵陣にいる隆信を見つけ名乗りをあげ槍で刺し、家来が首を取った。また一説には武士の情けで隆信がその場で自害するのを許し、そのため島津家中では生け捕りにできたものを自害させた(あるいは討ち取った)として、出陣前まで蟄居(ちっきょ)させられていたという。そのため忠堅は武士の意地をとおし、勇将を相手に死に場所を求めたともいわれる。川上忠堅29歳。


 


天正14年(1586)7月12日 島津軍太宰府に進軍、岩屋城を包囲。
 広門を降した島津軍は、12日天拝山上で宝満・岩屋城を眺め軍議を開き、城の麓を取り囲んで二日市、太宰府などに陣を敷いた。般若寺を本陣、観世音寺を前線基地とした。


高橋紹運の迎撃体制は?
 ここで岩屋城、宝満城、立花城の位置、堅固さを見ておこう。




   岩屋城、宝満城を北側から眺めている。
 岩屋城と宝満城は山続きではなく、いったん平地に下りて行き来する。 平野部に太宰府天満宮があり、太宰府の市街地は四王子山の南側に多く広がっている。
 天満宮の東の山の麓に竈門(かまど)神社があり、そこから山に登ると約2時間で宝満山頂に着く。
 宝満山は修験道の聖地で、多いときは寺、道場など300を越える僧坊があった。

 岩屋山と宝満山の水平距離は5キロである。(歩けば3時間前後かかる。)
 岩屋山(四王子山)が低くなだらかで、宝満山が高く急峻なのがわかる。
 (なお、宝満城のあった場所は確定していない。)



拡大写真 (3754x454pix,158KB)
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  太宰府の東側にそびえる宝満山とその連山である。
宝満城はどこに建っていたか確定していない。

諸説として

1.宝満山頂周辺 
「竈門山碑のあたりに数百の軍勢が籠城可能な広さがある。これより上の行場と見られる巨岩のあたりも二、三百人収容できる。」(吉永正春氏調査)

2.仏頂山頂周辺か宝満山への尾根線上
「奥の院の仏頂山の方はさらに面積が広く勾配が緩やかで、かなり平地を利用できる。水場も近く、ここに宝満城があったと信じる。」(吉永正春氏)

3.頭巾(とっきん)山頂周辺
「福岡藩の命令により記された(作者は実際に現場を歩いて記述している)『筑前国続風土記附録』にある『八葉と化生童子の間の峯にあり、城跡は五十間に十間余、その南にも東にも平地があり、本丸の東に堀切があり、東・南・西の三方は石壁、北は切岸』という記述と合致するのはここしかない。宝満山からも太宰府からも少し離れすぎているような気もするのは、現代人の感覚であろうか。」(森弘子氏)

各山頂間の水平距離

  三郡山(高さ935m)(頂上はレ−ダー基地)
   ↓ 600m
  頭巾山(高さ901m)
   ↓1,500m 
  仏頂山(高さ868m)
   ↓ 500m
  宝満山(高さ829m)

 平野部からの登山道が多いのは宝満山である。東、南、西側から登山道が通じている。(登山道は当時からあったかどうか分らないが、当時までの修験道の盛大さからみて、宝満山周辺が最も開発されていたであろう。つまり、人も山道も多く最も警戒しなければならない区域であろう。

 仏頂山は宝満山麓から敵が攻めてきたときにも対応できる位置にある。
仏頂山に直接登ってくる道にも当然対応できる。

 頭巾山は宝満山から2キロ離れているので、常時の警戒の基地としてはやや離れ過ぎと思われる。ただ今回のように一、二千人の者が籠城する時には必要となるので、この広いスペースも曲輪に利用されたであろう。三郡山方面からの来襲を防ぐ砦も必要だったと思われる。

 位置から考えると、仏頂山頂周辺に数百人〜千人程度詰めることのできる城(曲輪群)があったとするのが妥当なような気がする。もちろんこの他にも各地に砦が作られていたであろう。

 はたして宝満城はどこに建っていたのだろうか?
 積み石跡とか、城が燃えた時の灰の層とか、何かはっきりとした証拠は、今後も出てこないのだろうか? 誰か確かな証拠を発掘する人が現れないかなあ。あるいは、太宰府の古くからの倉の中に、麓から眺めた宝満城のスケッチとか残っていないのであろうか。


   宝満山は標高数十メートルの平野部からおよそ800メートルほど屹立(きつりつ)している。
 登るのは息が切れて大変である。
 しかし福岡県では一番人気のある山で、いつも登山者で賑わっている。
 私は人生のうちで何回登れるだろうか?

 宝満太郎泰時氏のHPの「宝満山登山2」を読ませてもらうと、なんと1,000回以上登頂した人が7〜80人いるという。
 宝満太郎氏も1,500回以上らしい。ケタの違う人たちだ。

 上には上がいて、な、なんと3,000回以上の登頂者が4〜5人いるという。しかも一日のうちに10往復した人もいるんだと!!
 きっと天狗の親類に違いない。このような超能力者(鉄の意志の持ち主)には四拝九拝して、爪のあかでもいただきたい。

 上の上には、そのまた上がいて、ひぇーー、4,600回以上も登頂している人がいるという。この人は修験道を開いた役小角(えんのおづぬ)の子孫ではなかろうか。たぶん、人が見ていないときは仙人となって空を飛んでいるに違いない。ひざまずいて拝みたくなる。世の中には信じられない人がいるものだ。

 それにしても私の「何にもせんにん」とは大違いだなあ。
 でも、私もちゃんとした山に登ったことはある。国土地理院の地図にも記載され、三角点もある名山だ。日本百名山に数える人もいる、かもしれない。それは大阪市にそびえる「天保山」である。標高? 山、高きがゆえに貴からず。(標高は4.53メートル) 



  四王子山(岩屋山側)から眺めた宝満山。
 こちらから見ると、宝満山の向こうに仏頂山がやや重なって見える。
 しかし、宝満山が急峻で、攻めるに難しいことは一目でわかる。

 岩屋城は四王子山の中腹(高さ281m)にあり、麓から30分も歩けば行き着く。
 一方、宝満山は何本かの狭い急坂の続く登山道を途中で押さえれば、そこを突破していくのは容易ではない。島津軍は攻略にあたって、多数の兵を活かしてすぐに城を落す方策が見当たらず、時間を要する包囲戦しかないと思われる。宝満城が岩屋城の十倍堅固という意味がわかる。

 また、立花統虎の守る立花城もまた堅固であった。
 自由都市博多の東にある立花城は、貿易による富の集中する博多を支配するための要の城で、2世紀にわたって大友、毛利、龍造寺、秋月氏などの各勢力によって争奪が繰り返されてきた。

 岩屋、宝満山から16、7キロ北に位置する立花山は、最高峰が367メートルでそれほど高くない独立峰であるが、七つの峰を擁している。城は戦いの度に増強され、七峰すべてに曲輪、砦を備えた全山これ要塞といってもいい堅固さで、岩屋城の比ではなかった。


  天正14年(1586)7月8日 立花城から使者
 立花統虎から、岩屋城を動かない父紹運に
 「岩屋城で島津の大軍と戦うのは不利です。宝満城、立花城は要害の地なので、どちらかにお移りください」と諌めてきた。
部下もみな同じ意見で、屋山城代は
「殿は早く立花城にお移りください。この城は私が城代として預かってきましたので、私が守ります。叶わぬときは城を枕に討死にするまで」と申し出た。

 高橋紹運は答えた。
 「要害であっても、人の和がなければ長くは保てない。 運が尽きなければこの城でも敵を防ぐことができるし、運が尽きるならどんな名城に籠ろうと滅ぶだろう。逃げることができないのなら、多年の居城であるこの城を枕に死ぬのが本望だ。
 立花城は要害であるが、一大事の時に大将が一か所に立て籠もるのは良策ではない。
 たとえあの島津の大軍が押し寄せても、紹運命を限りに戦えば14,5日は城を支え、寄せ手の3千人ばかりは討ち取れる。そうすれば敵もそう強くは出れないだろう。
 立花城は名城である。ここでさらに20日間を持ちこたえれば、中国から援軍が駆けつけ、統虎の運も開けるであろう」

 そして立花城に宛てて書状を託した。
 「諫言はありがたいが、私は岩屋城に籠城する。
 こちらのことはともかく、統虎は立花城を己の屍をさらしてでも守れ。そして援軍を待て。
 行き来できるのも今日、明日までだ。もう二度と会うこともないだろう」

 この遺書を読んで、立花城の武将はみな泣いた。
 そして岩屋城へ援軍を出すことになり、志願する者の中から3、40人が選ばれた。
 (統虎はこれまでも討死にを覚悟している紹運のもとに援軍を派遣したかったのだが、他家に入ってきた身でもあり、なかなか言い出せなかった。後年、あの時皆が志願してくれたときは本当にうれしかったと述懐している。)
 紹運は駆けつけた援兵に、「岩屋城は我々で守る。皆は立花城を守って欲しい」と頼んだ。が、援兵は聞き入れてもらえなければ切腹する、と答えて動かず、最後に紹運もこれを快く受け入れた。

高橋紹運の迎撃体制(1)

 紹運は岩屋城にいた女子供、病人などを宝満城に移し、統増に守らせた。
 紹運の妻ちよは最後まで岩屋城に残って紹運とともに戦うと言い張ったが、「統増を頼む」との言葉に抗えず、「これまでのご恩は忘れません。」と言って宝満城に移っていった。(妻ちよをはじめ、婦女子数十人が岩屋城に残っていたとの説もある。)


  紹運の結婚エピソード
 紹運は、大友氏の家臣斉藤鎮実の妹ちよと婚約していたが、何年も戦さが続き婚儀が延び延びになっていた。
 やがて式をあげようというときに、相手が「ちよが疱瘡にかかってみにくい顔になってしまった。この話はなかったことにして欲しい。」と断ってきた。(当時は疱瘡(痘瘡、天然痘)にかかる人は多かった)
 紹運は「私は彼女の容姿に惹かれて婚約したのではない。心の優しさに惹かれたのです。ちよの心が変わっていないのなら、私はちよと結婚します。」といって二人は結婚した。

 二人は、戦乱続きの毎日を自分の信念に従って生き、子供たちも成長した今、思い残すことはなかった、のだろうか?
 (戦国時代の将兵は、明日の命がどうなるか誰にもわからなかった。未練を残さぬよう毎日を精一杯に、清冽に生きた。現代の私たちにはとても無理であるが・・。)
妻も、ずっと夫や子供たちといっしょに過ごせるならそれに越したことはないが、夫とともに死ねといわれたら、いつでも死ねるよう心の準備はできていた、のだろうか?
 (妻は夫が自害するとき、いっしょに自害する場合や、生きて実家に戻る場合があった。またこれは攻める側の意思にも左右された。妻や子供の命まで奪ってしまったり、略奪したり、あるいは妻や子供は逃がしてやる場合があった。)

 昭和の時代までは、武将あるいは武将の妻のように、毎日を精一杯に、清冽に生きて、たとえ死に臨んでもこれに毅然と、あるいは悠然と向きあっていく人がいた。
 多くの人が(私もだが)漫然と生きているように見えるこの平成の世にも、このように、毅然と、清冽に生きている人はいるのだろうか。
 (いつの世にも、たとえ少数であっても、きっといるに違いない。)


    

  高橋紹運の迎撃体制(2)
 岩屋城に留まり援軍が来るまで死守する決意の紹運と、彼と生死を共にせんと城に残った計763人の兵を、次の各砦に配置した。

(守備)   (守将)     (配員)
南西の城戸  屋山中務少輔  一百余名
百貫島砦   三原紹心    一百余名
虚空蔵台   福田民部少輔  五十余名
南大手門   伊藤総右衛門  七十余名
二条の砦   萩尾麟可    五十名
山城戸    弓削了意    七十余名
風呂屋谷   土岐大隈守   人数不明(二十余名か)
東松本砦   伊藤八郎    人数不明(二十余名か)
秋月押え   高橋越前守   五十余名
水の手上   村上刑部    二十数名 (別書では六十八名)
本丸(高橋勢) 高橋紹運   一百五十名
〃 (立花勢) 吉田右京    三十九名

   合計 七百六十三名
(西津弘美氏「戦国挽歌高橋紹運」より引用。)
    
 これまで増強してきた砦に鉄砲、武器を十分配備し、土塁、堀切を仕上げ、各所に大木、大石などを積み上げ、楠正成にも負けないような陣地を築いた。

7月9日 秀吉へ救援要請
 高橋紹運、立花統虎は島津軍の襲来を急使で黒田如水を通して秀吉へ報告し、救援を要請した。
 (秀吉からの「毛利、小早川、吉川に命じて軍勢を派遣した。また黒田、宮木を九州に下したので相談せよ。油断なく忠節に励め。」との返事は間に合わなかった。)
 黒田如水は秀吉から九州遠征の軍監に命じられ、状況把握・派兵準備を始めていた。(如水は九州にはまだ来ていないが、部下は既に九州で活動を開始していたと思われる。)
 なお、同じく軍監を命じられた仙石秀久はこの時すでに豊後に入っていたようである。(肩書は軍監ではなかったともいわれる。)

7月12日 島津軍太宰府に進軍、岩屋城を包囲。
 広門を降した島津軍は、12日天拝山上で宝満・岩屋城を眺め軍議を開き、城の麓を取り囲んで二日市、太宰府などに陣を敷いた。般若寺を本陣、観世音寺を前線基地とした。

7月13日 黒田如水から使者
 13日黒田如水からの使者が包囲をかいくぐってたどり着き、「立花城へ移りそこで籠城して、関白の軍勢が来るのを待たれよ」と伝えてきたが、紹運は「ここに至って敵に後ろを見せて退くことはできない。戦ってこの城を枕に討死にします。」と答えた。

7月13日(?) 島津軍より降伏勧告の使者
 戦いを前にして、できれば戦闘を避け、早く関門一帯を抑えたい島津軍は、紹運のもとに使者を遣わしてきた。
(使者として地元二日市にある荘厳寺の快心和尚が派遣されたといわれる。)
 使者「島津軍は、叛いた筑紫広門を討つために出陣してきた。宝満城は広門が占領した城であり、統増殿が籠る理由はない。宝満城を渡されるなら、和議を結んで引き上げよう。あくまで拒否するなら攻め落とす。城兵のこともよく考えられよ。」
 紹運「宝満、岩屋、立花の三城は我ら親子が主家の大友家より預って守っているもの。主家も我らも関白公の家人(けにん)となったので、関白公の命令がなければ渡せない。強いて受け取ると申されるなら、帰って速やかに攻められよ。我々は命の限り戦うので、いささか手強いと覚悟されよ。」


   紹運も部下の生死のことは当然考えたであろう。しかし、一顧だにしたこともないが仮にここで降伏したらどうなるか。
 関門海峡などで豊臣軍の上陸を防ぐための島津軍の先鋒を命じられ、本来紹運たちへの援軍と戦わされるのは目に見えているではないか。しかも、裏切り者、臆病者との汚名を着せられたあげく、一族郎党の存続すら危なくなるであろう。
 一方、正々堂々と武士の義を通し、城に籠った数百人が命をなげうって戦えば、残された家族、郎党を救うことも可能であろう。
 どちらを選ぶか、考えるまでもない。皆わかってくれるであろう。反対の者はいつでも去ってもらって結構だ。
 紹運はこのように考えたのではないだろうか。
 紹運が「私は岩屋城に拠って戦う。去りたい者は去ってもよい」とみんなに決意を伝えたとき、皆紹運の徳を慕い、紹運のもとから去った者は一人としていなかったといわれる。


  紹運はなぜ岩屋城に籠って戦ったのだろうか。
 籠城して持ちこたえるためには、みんなが勧めるように宝満城か立花城に籠るほうがずっと長い期間対抗できるだろう。
 紹運はなぜ小さな岩屋城に拠って戦ったのだろうか。

 吉永正春氏「当時の道義地に落ちたふがいない武門に対し、身を捨てて節義に殉じる武士の意気地を、彼らに見せてやりたかったのではなかろうかと考える。人としてまた武人として一番大切なものは何か、その大切なものを忘れかけている当時の武士達へ、覚醒の警鐘を鳴らしたものであろう。」(「筑前戦国史」)

 人に命じられたから戦うのではない。これが正しいと自分が信じるから戦うのである。これは紹運が人生の師、立花道雪に学んだ生き方でもあった。


  「大友家の良心」立花道雪
 立花道雪は主家を代表する猛将で「大友家の良心」といわれた。
 大友宗麟は自国の領土や権力が拡大するにつれわがままになり、酒色に溺れ、配下武将の信頼をなくしていった。
 道雪は主君を何度も諌めたが、だんだん会ってもらえなくなった。そこで道雪は京から都踊りの娘一行を呼び寄せ、連日踊りを楽しんでいると噂を立てさせた。宗麟は「あの無骨者の道雪が?」と驚き、道雪たちを呼び寄せた。踊りが終わった後、道雪が主君を諌めたのはいうまでもない。(この踊りが鶴崎踊の起源といわれている。)
 しかし宗麟の振舞いは結局改まらず、道義を説く道雪はうるさがられ、遠くの筑前の地に留められたともいわれる。しかし道雪は、主君が誤った行いをする時は、たとえ手打ちにされようと、それを諌めるのが側近の務めと信じていた。
 (主君の言葉には、それがどんなに間違っていても従うのが忠臣のとる道である、という考えは、江戸時代の儒教思想に基づいて、徳川幕府によって広められた思想である。戦国時代は武将が自分達の一族を守ってくれる主君を自由に選ぶのは、武将の権利だった。)
 やがて宗麟のまわりには家臣団を統率できる武将がいなくなり、島津軍との決戦「耳川の戦い」では戦場において、作戦さえまとまらず、各将が勝手に戦って惨敗した。その後は凋落の一途をたどった。
 しかし、立花道雪、高橋紹運は一度も大友宗麟に反旗を翻そうなどと考えたことはなく、一生大友家を支え続けた。家臣がだんだん大友家から離れていく時には、立花城から訓戒状を多くの武将に送り、再結束を訴えた。また、自分は長年筑前の地にあって高橋紹運と力を合わせ、博多を睨む要城の立花城、宝満城、岩屋城を守り続けた。


  高橋紹運の戦略
 戦略的には次のような意図もあったのではないだろうか。
 それは自分の籠る城を囮(おとり)にして敵を引き付け、敵がこの地を素通りするのを防ぐということである。
 もし岩屋城を離れ、宝満城か立花城に籠ったとしよう。両城が籠城戦に強いのはまちがいないが、こちらから敵への攻撃も限定される。
 頂上の城に通じる麓の道を押さえられると、多人数での攻撃は困難となる。そこで島津軍は両城をそれぞれ1万人前後の兵で包囲して動けないようにしておき、残りの3万の兵を関門海峡やその他豊臣側の援軍が上陸しそうなところに先回りして布陣する。そうすれば上陸作戦は非常に困難になり、島津側が主導権を握ってしまう。島津軍は必要なら、国内に待機している2,3万の兵を出陣させることも可能である。
 紹運としては、自分達は戦いもせず堅固な要塞に籠ったままで、そのために自分達の要請した援軍が苦戦を強いられることになる可能性が強いこのような作戦は取れないであろう。わが身を犠牲にしてでも、小さな岩屋城に籠って島津軍を引き付け、立花城とも力を合わせて、なんとしてでも援軍が上陸し、駆けつけることができる時間を稼ごう。そして、己の正しいと信じることのためには命を投げ出して戦う将兵達がいることを天下に示そう。
 このような考えも頭にあったと思う。


  7月14日 島津軍総攻撃開始
 紹運を調略できないと悟った島津軍は14日から総攻撃を開始した。
 午前中に城下の家々を焼き払い、数万の兵が麓に押し寄せた。午後に法螺貝の音とともに総攻撃が開始された。

 「終日終夜、鉄砲の音やむ時なく、士卒のおめき叫ぶこえ、大地もひびくばかりなり。(島津軍の)火矢を射ることすきまなければ、城中の家とも大略焼けにけり。・・・。城中には上下みなここを死に場所と定めたれば、攻め口を一足も退きさがらず、命を限りに防ぎ戦う。(紹運軍には)ことに鉄砲の上手多かりければ、寄せ手は楯に逃れ、竹杷(弾丸よけの竹束)をつける者共打ち殺さる事夥(おびただ)し」(「筑前国続風土記」より)

 島津軍の兵が次から次に押し寄せ、岩屋城の兵は持ち場を一歩も退かずに戦った様子がわかる。この日は夜12時まで総攻撃が続いた。

 紹運軍は日頃の訓練どおり、近づく敵には鉄砲、矢、投石で応戦し、各所には大木、大石を積み上げて敵兵めがけて落とし、侵入を防いだ。鉄砲、弾丸は十分備蓄されていた。

 翌日(7月15日)も一日中(朝10時から夜12時まで)猛攻撃が行われた。その後も攻撃が続けられたが、砦を一つも破ることができず、島津軍の死傷者は増えるばかりであった。

本丸周辺から大野城へ通じる山道

   本丸近くから大野城(北方面)に通じる山道(「九州自然歩道」)。
 島津軍をおびき寄せては、隠れた兵が鉄砲で撃ちたおしたであろう。



本丸から二の丸に通じる山道の横の急坂

   本丸から二の丸に通じる道の横手は4,50度の急坂となっている。
 岩屋山は低いといえども山は山、楠正成にも劣らない策略で、あらゆる地形を活用して戦ったことであろう。
 このような場所には、下に敵兵が集まるように導き、上から大木、大石をごろごろと落とし、敵兵をなぎ倒したに違いない。
 この戦いでは、大木、大石が随所に利用されたことが記録に残っている。



本丸周辺の林の中にころがる大石  
 本丸周辺の山の中にはこのような大石がいくつも転がっている。





 これらの大石ははたしてこの戦いで使われた石であろうか。もしそうならば、最後の本丸を守って上から落されたのかも知れない。
 
  本丸周辺の林の中にころがる大石




本丸への通路となっている崖

   右側の崖の上が本丸である。本丸を落そうと押し寄せてくる敵兵は、鉄砲で狙われ、投石で頭を打ち砕かれ、それでも近づく兵には頭上から大木、大石が落された。
 石打ち(印地(いんじ)打ち)は当時盛んに使われた攻撃法で、投石兵が周辺を剃刀のように削った拳大の石を雨あられと投げるのである。当時の鉄砲は次の玉を撃つのに時間がかかったが、こちらは寸断なく投げられる。石打ちによる被害も多かった。



   大石は近くに無数にあった。岩屋城から数百メートルのところに大野城の土塁が走っている。
7世紀中ごろに延々と築かれた土塁には大量の大石が使用されている。当時で構築後900年も経っておりあちこちで崩れている石をいくらでも利用できたであろう。
 (主な大きな石垣は現在修復されているが、写真のような壊れかけた土塁はいたるところに数多く見られる。)



  水の手口石塁。
 ここは本丸の北数百メートルの地点にある大野城太宰府口城門の近くの場所。
 この付近には水の手上砦があった。(現在慰霊碑(紹運辞世の歌も刻んである)が建てられている。(慰
霊碑については(4)に掲載)

「石こづんばば」伝説。
 紹運を慕っていた村人たちは、捕まっても誰も水の手の場所を島津軍に教えなかったが、ついに老婆が口を割って、島津軍に水の手を切られ、岩屋城は落城した。怒った村人たちは、石を積んで老婆を生き埋めにしたという。水の手の重要さを伝える話であろうが、少し前まで、山に登るときには小石を持って、この近くの「石こづんばば」の塚に積んでいくのが慣わしだったという。



   このあたり、城の北側の山中は紹運軍の勝手知ったる地で、島津軍はうかつには踏み込めなかった。
 しかし戦いの後半になると、5万人で包囲する島津軍もだんだん山中に進出するようになり、ついに水の手を切るのに成功したといわれる。籠城戦では、水の確保は最大の課題といわれる。

 



   大野城の太宰府口城門跡。大野城は7世紀に建造された山城である。
 水の手口の近くにある。



水の手上砦の近くの大野城土塁。

   本丸の北数百メートルの地点にある水の手上砦の近くの大野城土塁。
 このあたりも敵の侵入を防ぐのに利用されたであろう。

 岩屋城は四王子山の南面にあり、統虎の守る立花城から直接は見えない。しかし、連日の戦いで燃える砦から立ち上る煙は、尾根の上にも広がり、統虎ら立花の兵たちも当然眺めることができたに違いない。立花城の兵は、連日の黒煙を眺め、ただ立花城の兵たちの武運を祈り、島津軍が立花城に攻めて来た時には、弔い合戦で仇を取ってやると心に誓ったであろう。


   
 
(参考文献=私がたまたま出合い参考にした本です)
「筑前戦国史」吉永正春著、葦書房
「九州戦国の武将たち」吉永正春著、海鳥社
「戦国挽歌高橋紹運」西津弘美著、叢文社
「炎の軍扇立花道雪」西津弘美著、叢文社
「宝満山歴史散歩」森弘子著、葦書房
「福岡古城探訪」廣崎篤夫著、海鳥社
   

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