九州あちこち歴史散歩★高橋紹運・岩屋城の戦い(1)大友宗麟の凋落 サイトマップ
天正14年(1586)7月、 彼らは14日間にわたって島津軍を釘づけにしたうえで、ついに全員壮絶な討死にを遂げた。 島津軍もおびただしい死傷者を出し(一説に死者三千人余、負傷者数千人という)、続いて立花城を包囲中に、ついに豊臣軍の毛利勢が応援に駆けつけ、島津軍はいったん退却の止むなきに至った。 宝満城・岩屋城、立花城を攻略して北部九州を押さえ、豊臣勢の上陸を阻止して、九州を制覇しようとした島津軍のもくろみは挫折した。 しかし、高橋 |
天正6年(1578)11月12日 耳川の戦い 大友 (立花道雪(どうせつ)、紹運の両将は筑前で城を守り、龍造寺勢や秋月勢の来襲に備えていた。) 大友家はそれまで九州の北半分を勢力下に治めていたが、筑前、筑後、肥前などの有力国人(秋月、筑紫、原田氏など)は次々と離反した。 彼らはこのあと、次第に力を増してきた「肥前の熊」 天正12年(1584)3月24日 九州の北半分の大半を勢力下に治めていた龍造寺隆信が、島原半島の (龍造寺家は嫡男政家(後見役として母慶ァ尼(けいぎんに))が後を継いだが、事実上はその懇請を受けた鍋島直茂が領国を差配し、立て直しをはかった。) 秋月、筑紫、原田、麻生氏らも島津につき、残るは大友氏だけとなった。 天正13年(1585)10月 秀吉「惣無事令」を発す 豊臣秀吉は夏に四国を平定し、関白となった。10月に全国に「 島津にも「大友との戦争を止め秀吉に従え」との文書が年末に届いたが、島津は従わなかった。 天正14年(1586)4月 宗麟、秀吉に派兵要請 大友宗麟は島津の侵攻に苦しみ(武将の離反が増え始めた)、自ら大坂表に出て、秀吉に見え臣下の礼をとり、豊臣軍の派遣を要請した。 筑前国を秀吉に進上し、また茶器の名品「新田肩衝(にったかたつき)」「筑紫茄子(なす)」、名刀「骨喰(ほねばみ)」などを献上した。(なお前年にも茶壷の名品「志賀」を献上している。) |
「新田肩衝」の有為転変 当時、大名の間に茶道が広がり、信長や秀吉は武将に与えることができなくなった領地の代わりに、茶器の名品を与え、茶会を開く権限などと共に、武将の権威の一部とした。城(領地)よりも茶器を欲しがる武将も現れた。(滝川一益は信長から上野国と信濃国の一部を与えられたが、それよりも茶器の「珠光小茄子(じゅこうこなす)」を望んだのに叶わなかったと嘆いている。) 「新田肩衝」は当時もすでに天下三肩衝として知られており、秀吉が欲しがっていた名品だった。挨拶がわりに献上したといっても、郷土銘菓のせんべいや自家栽培のなすびとは訳が違うのである。 茶器天下三肩衝の流転(暇なときにどうぞ) |
天正14年(1586)5月 島津氏、秀吉の「九州国分け案」を拒否 秀吉は「九州国分け案」を示した。大友氏側に有利な案だったため島津氏は拒否した。 天正14年(1586)6月 肥後口から北上開始 島津軍は1月にいったん北上を決めた後も秀吉の動きを見ていたが、ついに6月、肥後口と日向口の二方向から北上を開始することを決めた。しかし、島津義久はなおも秀吉の出方が読みきれず、まず肥後口からの侵攻作戦を実行し、豊後(ぶんご)方面は豊後南部衆の離反、内応がさらに拡大するのを待って侵攻することにした。 |
秀吉は前年(1585)3月紀伊の根来寺、雑賀党を攻め滅ぼし、6月四国に8万の大軍を派遣して長宗我部元親(もとちか)を攻め、8月四国平定した。また7月には関白太政大臣の位を得ている。この後いずれ九州にも進攻してくることは予想できた。 しかし秀吉もこの2、3年で畿内周辺を支配下に治めたばかりで、前々年(1584)には徳川家康との「長久手の戦い」で手痛い敗北を喫し、講和がなった後もこの二人は睨み合ったままである。この年(1586)4月に秀吉は妹を家康に嫁がせたが、家康は浜松から動かず、二人の関係はこの先どうなるか全く読めなかった。義久は秀吉が九州に攻めてくるにしても、家康が秀吉の背後を脅かしている限り、まだ1,2年先のことだろうと睨んでいた。 一方、島津側も問題を抱えていた。島津もこの数年で支配地域を拡大し、日向、肥後、肥前などを支配下に置いてきたが、統治がうまくいっていたわけではなかった。本国内においてさえ一枚岩というには程遠く、また支配下のうち特に肥後は統治に問題をかかえていた。このような状況で出兵を強行しても、肥後などで反乱が起これば、島津軍は退路を絶たれて大打撃をこうむるであろう。 しかし、今回の北上作戦が豊臣方の動きより一日でも遅れると、筑前、豊前の敵を一掃し、豊臣軍が九州に上陸する前に海岸線を押さえ、その上陸を阻止するという島津軍の目的は崩れ去るのである。九州に大軍が渡るのを許したら物量戦となり、豊臣軍への太刀打ちは難しくなる。あくまで先手を取って九州への上陸を阻止し、有利な条件で和議に持ち込むのが島津側の算段であった。 秀吉はこの後家康に対して勝負手を連発した。 まず、4月に秀吉の妹の旭姫(姫といってもすでに44歳。家康は45歳)を現在の夫から強引に離縁させ、家康の正室にと申し入れ実現させた。(その夫は抗議のため自害したともいわれる。)家康も正面切って断るだけの力はないので受け入れたが、それでも大坂城に挨拶には出向かなかった。すると秀吉は9月、今度はなんと母親の大政所(おおまんどころ)を、娘の見舞いと称して浜松城へ送ってきた。実質は人質である。ここまでされて家康は遂に11月大坂城に挨拶に出向き、秀吉と家康の和解がなった。 秀吉はすでに九州に先発隊を派遣していたが、後顧の憂いがなくなったため、その後すぐ37か国の25万の大軍を動員して九州に向かうのである。 |
天正14年(1586)6月 肥後口から北上開始 肥後口から、島津忠長、 筑前・筑後・肥前・肥後・ 日向口からは、島津家久を大将とする 上井覚兼ら一部の部隊は筑後攻めに出陣した。 (豊後攻めは10月に出陣した。) 島津義久は (10月に義弘、歳久、家久も出陣した。) |
岩屋城本丸跡を北東側(大野城太宰府口城門跡方面)から望む。後方は太宰府の町。 四王寺山の南面中腹の 山塊の最高峰・大城(おおぎ)山(標高410メートル)は北西方向に約1.6キロの距離である。 近くの大野城土塁跡まで数百メートルの距離。 大野城は紀元7世紀に唐・新羅からの侵攻に備えて築かれた朝鮮式山城で、その土塁は岩屋城の北側の山域を一周して、全長7.8キロにわたって築かれている。 |
ここが四王子山の一峰である岩屋山(標高281メートル)である。 ここに本丸の これは麓の 高橋紹運はここから島津軍勢の動きを眺めながら策を練り、下知を飛ばしたのであろう。 |
観世音寺東側の畑から四王子山を望む。 岩屋城本丸跡は山の正面のとがったところである。 四王子山は北の方向(向こう側)に連なっており、もっとも高い山で410メートル。 左側に見える大きな倉は観世音寺の宝蔵で、中には18体の仏像が納められている。すべて国の重要文化財である。 このあたりは春には一面菜の花の黄色で埋まる。 山に続くこの小道も、戦国時代の昔から変わることなく残っているのではないだろうか、と思わせるのどかな風景である。 |
観世音寺の真裏から岩屋城跡を望む(中央部分の出っ張った一帯)。 観世音寺には島津軍の前線基地が置かれた。 ここから岩屋城まで約1,000メートルの距離である。 戦場周辺の住民は戦さのうわさにおびえ、戦火の及ばない山の中などに逃げ込んだ。麓周辺の人家は、攻城戦の常道として、攻撃の前にすべて焼き払われた。 |
太宰府政庁跡(都府楼跡)から岩屋城周辺を望む(山の右端一帯)。 やがてこの近辺を5万余の島津軍勢が埋めつくした。 筑前の高橋紹運、立花統虎と豊後の大友氏以外の国人はほとんど島津軍に従った。 |
太宰府天満宮から望むと、まさに天空に浮かぶ舞台に見える。 本丸やそこへ通じる大手門一帯は「 また、岩屋城から数十メートルほど下ったあたりの岩盤には室町時代に五輪塔や宝塔、 「 「虚空蔵菩薩」は頭脳と記憶を司り、福徳と知恵を無限に内蔵し、 私の知り合いといえば、地獄谷で大蛇丸と戦った児雷也とか、あまり清らかなところには住んでいないなあ。 私もこんなありがたい菩薩さまと早くからお知り合いになっておれば・・・。もう、手遅れじゃ。 太宰府の上空は、学問の神様や頭脳・記憶を司る仏様がいつも飛び交っておられて、きれいに澄んでいる。 |
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(参考文献=私がたまたま出合い参考にした本です) 「九州戦国合戦記」吉永正春著、海鳥社 「炎の軍扇立花道雪」西津弘美著、叢文社 「島津義久」桐野作人著、PHP文庫 「太宰府発見(歴史と万葉の旅)」森弘子著、海鳥社 |
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